1月6日
バーリ・パレーゼ空港を飛び立ったヒコーキは、あっという間にフィウミチーノに着いた。途中、「お茶うけ」程度だが機内食もあった。
国内線ターミナルからそのまま出口へ、そして空港駅へと向かう。昨日もおんなじように空港駅へ向かっていったので少々かったるく思った。
時間も時間だからか、職員も旅客もほとんどいない。がらーんとした雰囲気。
駅の窓口もしまっている。自動券売機で切符を買い、かぞえても10人くらいしかいない空港駅でひたすらレオナルド・エキスプレスを待った。
空港駅の構内。灯かりもぼんやりとして構内は薄暗く、まるで終電間際のJR武蔵野線の駅みたいだった。
かなり待つ。
息子は立ったまま寝ている(ように見えた)。
ようやく列車が到着したのだが、まわりの人数はほとんど変わっていなかった。
昨日とはまったく逆で、がらがら状態のレオナルド・エキスプレスはローマ・テルミニに向かって滑りだした。息子は完全に寝てしまった。
帰国の段取りなんかを考えているうちにもうテルミニに着いた。
駅の時刻表で明日のレオナルド・エキスプレスの発車時間をチェックした。6時台前半。明日は意地でも起きねば。
ねぐらについてはまったく心配してなかった。駅ヨコにたくさん宿があった。
何も考えず、テキトーなペンシオーネにころがりこむ。60エウロだが高いとも安いとも何にも感じなかった。日本人のオンナのコとイタリア人の男がベタベタしながら向かいの部屋に消えてった。
部屋に入る。息子は1分くらいでぱっぱとあしたの支度して、あっという間にフトンに入って熟睡してしまった。俺は部屋の片隅でお土産で満杯になった袋の中身を小分けしたり、キタナイ服などをふんずけて圧縮して荷物をまとめたのち、目覚ましをセットして息子同様にすぐに眠りの世界に入った。
1月7日
朝は6時に目覚めた。
息子も自然に起きた。
まだ真っ暗闇のローマの街をとことこ歩き、駅へむかった。
ちょうど駅の売店で到着したばかりの新聞の仕分けをしていた。
コリエレ・デロ・スポルトを自分用に、ガゼッタ・デロ・スポルトをお土産用に買った。
インク臭いしんぶんを小脇に抱え、そのまま駅バールに飛び込んだ。息子はカプッチーノを、俺はカフェを飲んだ。
息子はすごくうまいすごくうまいといつまでも言っていた。ナーポリの方が美味いに決まってるんだけど、息子がうまいうまいというと不思議ととてもおいしいように感じるのだ。
これが息子の感覚に残った、この旅の最後のイタリアの味だ。思い出に残るのだろう。
レオナルド・エキスプレスはすでに待っていた。
ミランのマフラーをまいた奴とローマのマフラーをまいた奴がつるんでうろついていた。両方とも日本から来たらしい(完璧な日本語を話してた)。そうか、昨日はナイトゲームでローマとミランがやったんだっけか。両方ともいまいましい糞チームなんでもともと興味なかったが。
レオナルド・エキスプレスに乗り込み、コリエレ紙をひらく。
オリンピコでの昨日のナイトゲームがトップだ。あ、ローマが負けたんだ。ザマミロ、と笑う。
思えば数年前。ローマ優勝の年に、ナーポリはBへと転落した。終盤の大一番、サン・パオロでのドローはナーポリの意地だったが、優勝を決められずに荒れ狂ったローマのティフォジがナーポリの街を荒らしまくった。放火もあったらしいのだ。それをニュース映像で見たとき、俺は震えが止まらなかった。ローマのクソ野朗、何もかもキライだとおもった。
トウキョウスタジアムにローマのシンボル(オオカミと双子の赤ちゃん)が設置されたとき、本気でぶっ壊してやろうとさえ思った。憎らしさはいまでもおんなじだ。
ローマ、もっと居たかったなぁ。と息子が名残惜しそうにして言った。まぁ、キミがオトナになったらゆっくり行けば良い。
コリエレを読み進む。昨日のサン・ニコラの結果は、と思って少し先の「囲み」記事をたどっていくとアラびっくり!
なんと一面ばっちりサン・ニコラの結果があり、しかもカラー面!
なーんでこんな試合をわざわざ(笑)。事情や背景は知らないけど、なんとなくうれしかった。どうやらこのコリエレ紙が保存版のおみやげになったようだ。
見だしのお言葉が”brutto pari”だけど、まあご愛嬌だ。
闇の中、ローマ・テルミニからするっとレオナルド・エキスプレスが走りだした。
車内には見事に誰もいなかった。ひととおりコリエレ紙に目を通すと、俺はしばらくボーっとしながらひたすら空港駅へ着くのを待った。
ひたすら息子は外を見ていた。オレンジ色の灯かりが照らす風景が彼にはどう映っているのだろうか。
空港駅に着いた。ほとんど無人状態であった。どこの店もやってない。
アリタリアのチェックインカウンターに向かうが、目的の便の受け付けが見つからない。俺はがらーんとした空港をとぼとぼとうろついていた。
離れの建物のカウンターにようやくたどりついた。これだけで30分はロスしてしまった。
カウンターにはものすごい数の東洋人がならんでいた。話すことばと持っているパスポートをみると、半分は日本人で半分は韓国人だ。マルペンサと違い、カウンターにはさすがにサポートする日本人職員はいない。
だからかチェックインにはものすごい時間がかかっている。前の韓国人オンナが床をどんどんならして不満を爆発させていた。まあまあ。
なんだかんだでチェックイン完了。
どこの店もやってないので仕方なくそのまま出国し、出発ロビーにむかった。
ロビーはたくさんの人でごったがえしていた。しかしそこには、俺らをジロジロみる視線も、生活臭さもない。
ふと外をみると真っ白な「JAL」のヒコーキがでーん、と待っていた。アリタリアのチケットなのにJALというのははたして得なのかハズレなのか。まあどうでもいいか。
息子はひえーっと驚いていた。今までの人生で一番大きなヒコーキだからだ、たぶん。
搭乗がはじまった。
キップをもぎって機内に入った瞬間、もうココから「日本」になった。
そのあとはどうってことなく、ただひたすら長い長いだけの帰り道だ。
息子はもう「坊主!」扱いされることもなく、客室乗務員のキレーなオネーさんに「ボク」よわばりだ。意地悪な俺は「ボク?オレンジジュースがいいの?」「ボク?うんこは済ませたの?」とからかう。息子はかんべんして!と嘆く。
望外だが、すでに「日本」となってしまったコノ旅に少々寂しさを感じたが俺はとっとと頭を切り替えていた。まず急に緑茶が飲みたくなった。
俺はただひたすらに紅茶やコーヒーを拒否して、「熱い緑茶」をオーダーしてはオネーさんを走らせてしまう。
別に悪意はないんだが、ヴァレッタでおばあちゃんにいただいたイングリッシュ・ティーとナーポリのバールで無愛想なオヤジがいれたカフェの味が舌から消えちまいそうなんで、オネーさんがもってくるリプトンティーやネスカフェ・ゴールドブレンドはご遠慮させていただいたのだ。緑茶ならまったく問題ない。
最高に嫌な客だ(笑)。
経由地のモスクワに着いた。モスクワで降りる客とモスクワから乗る客と入れ替えだ。ついでに客室乗務員のオネーさんも入れ替えやがった。ありゃりゃ(笑)。
約1時間、モスクワ・シェレメチェボ空港で待つことになる。
面白い。
息子に「あの」シェレメチェボ空港を体感させることができるのだ。貴重な体験だ。
また軍人にライフルでおどされながら誘導されたりするのだろうか?変にわくわくしてきた。
期待は失望に変わった。
シェレメチェボ空港の職員は笑顔でてきぱきと対応しやがった。軍人はいなかった。
ロビーはなんか明るくこぎれいになっていた。
ルーブルと米ドルしか使えなかったはずの免税店は日本円をはじめ各国の金がちゃんと使えるようになっていた。
便所にはちゃんと「便座」も「紙」も完璧にそろっていて、床もきれいで「そそう」もなかった。
一番ショックであった。
ウチの職場のお便所の方がよっぽどキタナイじゃんか!俺の中でおといれのFIFAランキングの序列が変わった。
俺は途方に暮れた。
繰り返すがこんなシェレメチェボに心底失望した。7年の間にロシアに何が起きたんだろうか?
搭乗だ。
またそのあとはなんてことなく、成田にただひたすら向かっていくだけだ。
寝ておかなくてはいけない。成田着が朝の8時前後なのである。
しかし、カラダはウソはつけない。ついぞ数時間前に起きた俺は目を閉じたままで頭は完全に起きていた。
息子なぞさっさと座席からモニターをひっぱりだして「ニモ」の映画をみていた。
現在、映画館でやってるやつなのにココで見れるのか。それともバッタものか?
長い長いシベリア上空のフライトだ。
あきらめて、じっとしていた。
どうってことなく、ヒコーキは日本の上空にさしかかった。
茨城の北浦あたりで冬のたんぼの景色が見えた。
ふぅーっと、深呼吸した。
畜生、遠いなぁ。ヨーロッパから。
「極東」ってこういうことなんだよなぁ。
などと、いまさらながらに俺のおうちがある日本という国の置かれた位置をしみじみ思う。
ベルト着用のサインがでる。高度がどんどん下がってくる。
そうだ、帰ったらちゃんと「正月」しよう。
雑煮とか、作って腹いっぱい食べよう。
着陸体制に入ったとき、俺はもう別のことを考えていた。
(Fine)
(2004/01/08)